一年前、大学に入った僕が一年間経てみたものや、分かったことを備忘録代わりに記しておこうと思います。
ちょうど入学の一か月前に東日本大震災があり、僕の入学式は一か月間遅れ、五月一日に行われることとなりました。高校と大学のちょうど間の空白のような時期が中途半端に生まれてしまい、一か月もの時間を持て余していました。
そんなとき、当時三年生だった@ken0324さんと@hidakazumaさんにお二人のやっていらっしゃるご活動の話を聴ける、ということで学校に手続きに行った際に、図書室でお二人とお会いしました。その時はお二人とだけ会う予定だったのですが、たまたま同じときに@yuya_mouri8さんと@jugglersenjyuさんがいらっしゃり、僕と、もう一人一緒にお話を伺っていた新入生の六人で夜ご飯を食べに行きました。この日の出来事が僕の一年生の在り方をほとんど決めたといっても過言ではないと思います。
@ken0324さんがやっていらっしゃったA&Tというモノづくり体験ワークショップはその場で参加することを決めました。一学期間ずっと行っていましたが、一年生のうち学校で行ったすべての活動の中で最も楽しかったし、学びがありました。
@yuya_mouri8さんは夕飯の際に、ご自分が始められた、Relma、というサービスについてすごく楽しく語ってくださった上、プログラミングの勉強、という形でインターンにもさそっていただき、本当に二つ返事で参加をお願いしました。
秋には@takashiiba先生の研究会にも入り、データ分析っぽいことや、社会学もすこし勉強しました。
ざっくりまとめてしまえば、いろんなことに触れられた一年間でしたが、その中で一番実感したのは、『少年老い易く、学成り難し』、ということでした。
10000時間の法則、というものがあります。なにかをきちんと身に付けるには10000時間はそれに打ち込まないといけない、というものです。プログラミングを使いこなせるようになりたいなら10000時間はパソコンに向かう、きちんとスケッチを描けるようになるには10000時間は白い紙に向かう、ということです。
昨年はいろんなことを恵まれた環境で体験できました。が、1年の一部を配分しただけだったため、どれも本当に自分の力になったわけではないです。アマチュアどころか初心者レベルです。どれも10000時間どころか2000時間にも届いていないと思います。
でも僕が気づいたのは、10000時間ってすごい長いなっていうことです。
10000時間=416日16時間
つまり、416日も続けなくてはならない。 ですから、一年ぶっ続けでやっても終わらないわけです。
もちろんなにかのプロになった方がいいに越したことはない。
でも大学中にどれか一つを極めるのはかなり難しい。
つまりこれはどういうことなのか。
僕は、これは日本の教育が悪い、とか環境に因るものだと思っていました。でも、この一年間、僕がお会いした社会人の人たちは本当に楽しそうに10000時間を目指して社会で学びを続けていました。特に今研究会でお世話になっている@takashiiba先生は、ご自分でもご専門を深めるだけではなく、本当にどんどん新しいものに挑戦していらっしゃいます。
つまり、『少年老い易く、学成り難し』、なので、勉強は、社会人とか、学生とか、自分の所属とか関係なく、生涯続けていくもの、ということです。
そんな中で、僕たちが一番自由に過ごせる、『学生』、という時間はそのあとに10000時間かけようと思えるものを選ぶ時間だと思います。
学生時代に10000時間かけたいものを選んで、生涯かけてそれを楽しみまくる。
もちろん選んだものはいつ変えてもいいし、いつ追加しても、いつ消しても、いいと思います。
でも、きっと失敗できるのは学生だけだから、追加できるのは今くらいしかないと思います。
だから、僕はこれからも、方向転換をしたり、迷惑もかけまくると思います。でも本当に一生かけて楽しめるものをじっくり選べるこの時間は本当に大切にしたいな、と思っています。
あなたの作ったものはゴミである、あるいはプロとアマの分岐点:プロジェクトマジック:ITmedia オルタナティブ・ブログ (via uinyan)
客観的にそれがゴミかどうかを判断することはできない。「私にとってはゴミ」以上のことは言えないと思う。
(via kotoripiyopiyo)
先日ちょっと暇つぶしに手塚治虫による、『どろろ』を読んでいました。
それがなかなか面白かったので、ちょっと僕個人の意見としてまとめておこう、と思って書いてます。
なので、ネタバレだらけです。
読んでみたい、と思っている人はぜひお控えください…。
『どろろ』の作品自体は映画が出た時に初めて知ったのですが、映画も見ておらず、なんとなく映画の説明を読んだくらいにとどまっていました。
以下Wikipediaより、『どろろ』のざっくりした内容です。
戦国時代。妖怪から自分の体を取り返す旅をする少年・百鬼丸と、泥棒の子供・どろろ。この2人の妖怪との戦いや、乱世の時代の人々との事件を描く。
僕にとってこの漫画は、『差』の物語でした。
まず、主人公の百鬼丸は父親が妖怪たちに彼の身体のほとんどを渡しているため、盲目どころか、鼻も、耳も、口も、すべて整形で作ったもの。そのうえ義足義手をはめて、という強烈な人物です。どろろに自分のことを説明する際に義眼を落としてみせるのはなかなか強烈な画でした。
つまり主人公の百鬼丸は、『身体の格差』を表しています。
次にもう一人の主人公、どろろは農民の出で、侍の略奪を経験してきた両親の元に生まれています。この両親、義賊としてお金を持った侍の家からお金を奪い取るのですが、最終的に権力や組織内の裏切りに屈します。
どろろは、『社会の格差』の象徴なわけです。
ここがなかなか面白くて、作中で二人は放浪しているわけですが、実はこの主人公二人、真逆の社会から来ているのです。
どろろは農民の出ですが、百鬼丸の父親は(作品の中でも幾度となくこの父子の対立構造は見られるのですが)かなりの権力を持った侍です。百鬼丸の弟も登場しますが、世間知らずのおぼっちゃま~というような印象を受ける人物です。
最後に、二人はいろいろな村を放浪していくのですが、行く先々で妖怪を退治した途端難癖つけられて追い出されてしまいます。
『村の内外』という差がものすごく顕著にみられます。
もちろん、作品の中には『宗教』や『国』といった差を取り扱ったエピソードもありますが、物語を一貫して目立っていた差はこの三つだと思います。
これだけでいかにこの作品がアニメ化された際に放送が規制されたか分かるかと思います。
もちろん、手塚治虫は作中でこれらの差を批判的に描いてはいるのですが、『差』があることはどうしようもない、という風に描写していると僕は感じました。
皮肉なことに、百鬼丸の父親は48匹もの妖怪と契約したのに、結局他の侍の家臣に終わっていますし、百鬼丸の身体に関しても、身体が欠損しているのがなんだ!気合だ!とでもいうような話もぽつぽつ見受けられました。
手塚治虫自身、これらの格差や差については個人でどうにかできるものではない場合が多く、耐えたり頑張るしかない、というような諦めもあったのかもしれません。
少し話は逸れてしまいますが、
そもそもなんでこの作品は『どろろ』、という名前なのか?
というのを読んだ方は疑問に思わなかったでしょうか?
二人の登場人物のうち、主人公を一人に絞れ、と言われたら、十中八九、みなさんは百鬼丸を選ぶと思います。どろろは彼が旅しているところに付いていっているだけなのですから。
この疑問への僕の出した答えは、「どろろが手塚治虫の理想の在り方だから」でした。
手塚治虫によると、『どろろ』、という言葉は
手塚治虫の友達の子供がどろぼうのことを片言で“どろろう”といったことをヒントにした
とされています。
もちろんこの意味も込められているとは思うのですが、僕がこの言葉を聞いて最初に思い浮かべたのは
『どろどろ』
でした。
混沌としている、というイメージがこの言葉には少しあるのではないかな、と思います。
旅をしている中で、さまざまな『差』が目の前に現れるわけですが、どろろはそれを常に疑っています。
侍だからなんだ、村の住人じゃないからなんだ、という具合です。
この点、百鬼丸は大人で、世界の在り方に対して大して疑問は抱いていません。物語後半になって彼が悩んでいるのも、「なんで流されたんだ」、ということに関してであり、彼が『差』について明確に疑問を示すことはほとんどありません。
どろろ達はある意味いろいろな『差』の混沌とした立場にあり、そしてどろろはそれを百鬼丸よりは自覚せずに『差』があること自体に関して疑問を持っていたのだと思います。
この作品、打ち切りのためにかなりぶつ切りのような形で物語が終わっているのですが、この最終話に手塚治虫にとっての『どろろ』、というのが詰まっていると僕は勝手に思っています。
以前から伏線はたくさんあったのですが、どろろが女であったことが明かされます。
つまり彼女は性別すらあいまいな存在だったわけです。
こういったことを経て、
手塚治虫にとって子供の「無知ゆえの純粋さ」みたいなものは、むしろ「混沌」に近いものとして映っていたのでは?
というのがこの作品を読んで僕が最後に感じたことでした。
(Source: wikipedia.com)
最近のITの流れの中で何が一番熾烈な競争になっているか、と言えば、
1.ソーシャル
2.クラウド
3.モバイル
の三つではないかと思います。現にこの3つのサービスに関して言えばApp Storeを開くだけでたーーーーーくさんアプリが出てくるはずです。
なかでも一番これからも可能性が広がっているのがソーシャルのものだと思います。これは至ってシンプルな理由で、ソーシャルというのはあくまで付加価値であって、日常におけるどんな些末な物事に対してもソーシャル要素、というのは付随させられるからです。
もちろんもともとデジタルで存在していたものとの親和性がとても高いとは思っていて、ソーシャルコンテンツの中でもソーシャルゲーム界の攻防が激しいのにはそんな理由もあるんじゃないかな、と思っています。
じゃあどんなソーシャルサービスやコンテンツがヒットするのかなーってぼんやり考えた時に、次のうちどちらか一つに特化してるとそのコンテンツはヒットするんじゃないかなって思いました。
それは、「コネクションが充実してる」、「コンテンツが充実してる」、そして「くだらない」の3つです。
基本的にSNSなんか見てるとよく分かりますが、ソーシャルサービスはコンテンツかコネクションのどちらか一つが充実していないとそもそもユーザーに使ってもらえないなって思います。前者は機能やインターフェースの充実で、後者はいかに多くの友達がたくさん使っているか、という基準です。
最近で言うとすごい時間割、Zaimなどのソーシャルサービスは一人でも十分使える機能、すなわちコンテンツを備えているから面白く使えるのかな、と。一人でも便利な機能が備わっているから継続して使う。
コネクションの代表例は言わずもがなSNS系のサービスですね。たとえばFacebookは億単位のユーザーを抱えているので、新しく登録するユーザーにたくさんの友達を紹介する力がすごく強い。友達とのつながりを断たないようにユーザーはFacebookにログインし続ける。
上の二つはユーザーによって使われる姿が比較的容易にイメージできます。
またビジネスとしてのやりくりの方法も比較的単純であることが多い気がします。
コンテンツの場合はコンテンツの配信料をとったり、機能拡張のために料金を取ったり、比較的イメージしやすい。
コネクションの場合はユーザーがコンテンツの場合よりも比較的離れにくい、という特徴があると思います。コンテンツは全く同じサービスがよりよい条件で登場するとそちらにユーザーが移行してしまうが、コネクションの場合それが起きにくい。なぜなら友達、フォロワーなどといった他ユーザーとのコネクションが目的で使われているから。よってある程度広告を打てたりします。
じゃあ「くだらない」ソーシャルサービスって何でしょうか。
Twitterが代表例なのですが、Twitterのコンセプトを考えていただければ分かりやすいと思います。
今でこそ「好きをフォローする」という標語を掲げていますが、どんなサービスか、と言われたら普通のユーザーさんなら、「思ったことを思ったままにつぶやくサービス」といったことを答えると思います。そして実際その通りだと思います。実質的に何か友達とそれがないと繋がれないわけではないし(元々のコンセプトの話です)、明日消えても困らない…ものでした。
このようにそもそもとりあえずやってみた、みたいなサービスで、特にそのサービスを使ってもユーザーに実質的なメリットがなかったり、知り合いが多いわけでもないようなサービスを「くだらない」サービス、と僕は呼んでいます。
Twitter、4sqはその代表例です。
自分の近況や居場所を報告するとか最近の言葉で言えば「誰得?」って話です。でも現にすごく有名になっていて一日だけで何千何万もの投稿がある。
ただ正直ビジネスモデルとしてはまともに成り立ってないと思います。
無料でなんのデメリットもない「くだらない」ものだからこそみんな使う。
「くだらない」ものの何が面白いって、くだらないが故にユーザーがいろんな使い道を見いだせることになると思います。当初Twitterの開発者はTwitterが企業の広報やマーケティングに使われたり、震災の連絡に使われたりすることは想定しもしなかったはずです。しかし現にそういう使い方をされた。
また一部の人に異様にヒットする可能性が高い。僕の周辺にはTwitterやってて深夜まで起きてたなんている人間もいます。これはコンテンツやコネクションのサービスでは起きにくい現象です。なにせその二つはある程度人目を気にしたり、重要だったりするから。
でも「くだらない」サービスは使ってても飽きにくい。そもそも「くだらない」ものだから。
最近ネットのいろんなサービスを見てて、いろいろ分析がなされてきた結果、コンテンツやコネクションの充実はかなり図られてきましたが、「くだらない」ものはそうそう出てきていないような気がします。
「くだらない」ものを使ってると異様にわくわくして楽しいので、単純にビジネスだけを追い求めたわけではなく、遊びの一環のような形でいろんな人がもっと自由にいろんなサービスを作るようになったら…インターネットってもっと面白い場所になるんじゃないかな、なんて思ったりしました。
アップル元CEO、スティーブ・ジョブズ氏が本日お亡くなりになった。 3年前の夏、アップル本社で彼の講演を聞いていた俺は、こんな日が来るのを想像すらできなかったと思う。ご冥福をお祈りします。
稚拙だけど、この文章を彼と彼の家族に捧げます。
- 「当たり前」を疑うこと
- わたしがはじめて「当たり前」を疑ったのは…
「当たり前」を疑うこと
1997年。ジョブズがアップルに戻った時、最初に始まったのは快進撃ではなくコマーシャルだった。後数ヶ月で倒産する予定だったアップルのブランドを取り戻すべく、ジョブズは”Think Different”というコマーシャルをつくった。”Think…
6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、
早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、
こう書いてあった。
「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください!おねがいします」
夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃったよw
昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。
朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げてた。
早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って
「ねえ!サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの!早く飲んでみて!」
っていって、夫に薬を飲ませた。
夫が
「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」
と言うと娘が、
「ああ! 良かった〜。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね〜」
……っていうと夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。
私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。
夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。
その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が
「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」
と言ったので、つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。
お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。
こういうシンプルな考え方ってプログラミング以外でも日常生活でも重要な要素だと思う